言葉を用いて意識的に考える場合、その思考は脳のなかで生じるのではなく、むしろ環境のなかで生じるのではないかという点について考察した。一般に、言葉を用いて考えるとき、言葉は思考の表現であり、思考それ自体は言葉とは別のものであると思われがちだが、実際にはそのような思考は認めがたく、語ることが考えることにほかならない。そうだとすれば、言葉を用いた思考は構文論的構造をもつことになる。したがって、その点で、古典的計算主義は正しい。しかし、思考が構文論的構造をもつとすると、思考は脳のなかで生じるとは言い難くなる。なぜなら、コネクショニズムが主張するように、脳は構文論的構造を欠くニューロン群の興奮パターンを変形する装置だと考えられるからである。構文論的構造をもつ思考は、むしろ脳のそとに、発話として存在する。つまり、脳は、それ自身のなかで構文論的構造をもつ思考を生み出すのではなく、環境のなかに発話という形で構文論的構造をもつ表象を作り出し、そうすることによって環境のなかに思考を生み出すのである。これにたいして、美や善悪などに関する直観的な判断を可能にする無意識的な過程は、ニューロン群の興奮パターンの変形として脳のなかで生じると考えられる。古典的計算主義はそのような無意識的な過程を構文論的構造に基づく推論的な過程とみなすが、それは誤りである。推論的な過程は言葉を用いて意識的に行われる過程であり、それは脳のそと、環境のなかで展開されると考えられるべきものである。
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