意識の自然化を目指して、ゾンビの問題および日常的推論の性格をめぐる問題を考察した。 1.ゾンビの可能性から意識の自然化の不可能性を導こうとする議論がある。この議論は想像可能性(概念的可能性)と形而上学可能性(事物的可能性)の混同に基づくものである。ゾンビはたしかに概念的に可能である。しかし、概念的に可能だからといって事物的に可能とは言えない。ゾンビが事物的に可能だと言えなければ、意識の自然化が不可能だとは言えない。意識の自然化の不可能性を導き出すためには、ゾンビの概念的可能性だけではなく、その事物的可能性を示す必要がある。 2.日常的な推論にはふつう多くの論理的な飛躍がある。従って、明示的な部分だけを見れば、日常的推論は古典計算主義的とは言えない。しかし、暗黙的、無意識的な部分を補って考えれば、日常的推論も完全に論理的な過程であり、それゆえ古典計算主義的なのだという見方がある。この見方は日常的推論の無意識的な部分を意識的な部分と同じく言語的な過程と捉える。しかし、日常的推論の無意識的な部分はコネクショニズムのメカニズムに基づく過程である。それは暗黙の前提による演繹的な過程とはみなせない。従って、日常的な推論は無意識的な部分をあわせて考えても、厳密な意味では、古典計算主義的なものではなく、むしろコネクショニズム的な色彩を強く帯びた過程である。言語を用いた意識的な思考は古典的計算主義が妥当するもっとも典型的な認知と考えられているが、むしろ古典的計算主義が妥当するのは人工言語を用いた形式的な記号操作による認知だけであって、日常言語による普通の思考は厳密な意味では古典計算主義的ではないのである。
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