今年度はヒュームの「徳」の生成論をモデルに現代の道徳的実在論と反実在論の議論を捉えようこころみた。ヒュームは人間の道徳性をある種の自然現象(感性的現象)として押さえる自然主義の立場に立ち、道徳性の内容を分析や還元ではなく、解明elucidationという方法で明らかにしようとする。つまり、道徳的言語の意味を説明するのに、道徳的感受性ならびにそれが関わる世界の間主観的に看取される特徴を問題にする。 われわれは強い自己愛self-loveと乏しい慈愛benevolenceの感情をもって生まれてくるが、言語の教授と学習を主たる手段とする社会化の過程を経て、道徳感情が育まれ、人為的な徳が成立していく。道徳的感受性はその起源をbooやhurrahとあまり異ならない反応に根ざしているが、現在われわれが所有している道徳的感受性はこの単純な起源を無限に超え出ており、そこに「対象認知的な」構造が成立する。すなわち、道徳的反応は確かに感受性の表現であるが、しかし、その際、それはある対象をかくかくであるとか、それがしかじかの特性をもっていると表現することによってその感受性を表すのである。 この道徳的感受性とそれが関わる道徳的特性とのあいだには次のような関係がある。すなわち、感受性が生じることによって、間主観的に看取される道徳的特性が成立し、そのような特性が看取されることによって、道徳的感受性が可能となる。両者は心的状態と対象といった仕方で切り離されるものではなく、equal and reciprocal partnersとして捉えるべきであり、その方向に道徳的認知主義、実在論の成立する可能性が存在する。
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