研究概要 |
私が本研究において意図するところは,世親が『阿毘達磨倶舎論』(以下『倶舎論』)を執筆するにあたって,どの程度『瑜伽師地論』(以下『瑜伽論)』に依存していたかを,この両文献を比較検討することによって解明することである.しかし『倶舎論』は,長大かつ複雑なテキストであるため,衆賢による『倶舎論』反駁書たる『順正理論』を利用しつつ,以下のように本研究を進めることとした.正統派有部の立場に立つ世親の批判者・衆賢は,『順正理輪』において世親の有部正統説からの逸脱を指摘するとき,世親のことを「経主」と呼んでいる.従って,まず『順正理輪』をコンピューター検索して「経主」の用例を収集し,次には,『倶舎論』において,衆賢の批判対象となっている箇所を特定する.さらに,衆賢による世親批判の趣旨と,その根拠を正確に理解する.そして最後に,『瑜伽師地論』をコンピューター検索して,関連箇所を探す.この最後の部分が,本研究において最も慎重を要するところである.というのも,同じ玄奘訳ではあっても諸文献の間で訳語は微妙に異なっており,どのような言葉・表現を検索すれば所期の結果を得ることかできるかは,必ずしも自明ではないからである.とは言え,研究が進展し,経験を重ねるにつれて,適切な検索語を選定することもより容易になりつつある. 現段階において,私は『倶舎論』の第一章および第三章について上記の手続きを完了した.私は,世親が正統有部説から逸脱する31の論点のうち,25事例について何らかの対応箇所を『瑜伽論』中に見出しており,これは世親が『瑜伽論』に大きく依存していたことを示すのに十分な比率であると思われる.しかも,それらの対応箇所のうちには,対応関係の非常に明白なものも含まれているのである. 本研究は,『倶舎論』執筆段階での世親の思想内容を明らかにするとともに,最近利用可能になった仏教文献のコンピューター検索を駆使して研究を行うという二つの側面において,有益な成果をもたらしつつあり,現段階での研究の進展状況は満足すべきものであると考えている.
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