今期の研究計画に従い、当初は18世紀啓蒙/ロマン主義における道徳的相対主義の位置付け作業を、ディドロ、シャトーブリアンなどの読解をとおして行った。その中で、相対主義と寛容主義が通常いわれるような順接的な関係にある必ずしもいえないという興味深い見通しを得た。幸いにも2002年度日本哲学会での「相対主義と普遍主義」という小シンポジウムで報告する機会に恵まれ、この見通しをまとめることができた。ここでは主に現代哲学に即して議論したが、その論旨は以下のとおりである。(1)相対主義は寛容をもたらすがゆえに正しい[モンテーニュ、人類学的思考]という有力なクリシェがある。(2)一方で寛容は、何に対する寛容かという線引き問題を誘発し、相対主義は無節操だという非難をも受けうる[サンデル]。(3)しかし、相対主義は寛容道徳だというクリシェ自体にも問題がはらまれている。なぜなら、寛容道徳というのはそれ自体がひとつの道徳(リベラリズム)であり、それを普遍的な道徳として主張するのは相対主義の自滅だろうから[B・ウィリアムズ]。(4)さらにしかし(3)の議論は逆に、相対主義が「相手は話しても分からないのだから暴力的に滅ぼすしかない」という不寛容哲学へとも転化しうることを示している。(5)以上は、寛容に対して相対主義が見せる循環のアポリアだが、同様のことは普遍主義・絶対主義の立場についても言いうる。(6)この循環を抜け出るには、相対主義/普遍主義が共有する前提を破壊する必要がある。その前提とは、様々な文化(道徳共同体)が原理的に共約不可能な幾何学的公理系をなしているという見方である。R・ローティのプラグマティズムのなかに、この方向への有益な示唆を読み取ることができる。以上、現代哲学の論争の場へと-コミュニタリアン/リバタリアン論争をも含めて-問題を引き入れえたことが、今期間の最大の成果であった。
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