研究課題/領域番号 |
11610060
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 一般 |
研究分野 |
美術史
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研究機関 | 成城大学 |
研究代表者 |
東山 健吾 成城大学, 文芸学部, 教授 (70119361)
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研究分担者 |
小澤 正人 成城大学, 短期大学部, 助教授 (00257205)
八木 春生 筑波大学, 芸術学系, 専任講師 (90261792)
清水 眞澄 成城大学, 短期大学部, 教授 (30124514)
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研究期間 (年度) |
1999 – 2000
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キーワード | 中国南北朝時代 / 仏教美術史 / 石窟 |
研究概要 |
本研究は中国甘粛省西部、河西地区に残された南北朝時代(317〜589)の仏教石窟群(敦煌の敦煌莫高窟第268、272、275窟、酒泉の文殊山前山千仏洞、張掖の金塔寺東・西窟、馬蹄千仏洞第1、2窟、武威の天梯山石窟第1、4、18窟など)の造営年代について考察するものであり、またそれらの性格を明らかにすることを目的としている。これら石窟は、河西石窟群と呼ばれ、中国初期仏教美術の様相を現在に伝える重要な遺跡とされている。それらすべてが、北魏の北朝統一以前(439)に開かれたとする意見と、この中のいくつかは統一以後のものであるとする二つの意見があり、未だ定説は存在しない。そこで問題解決の糸口として、北魏時代前期(386〜493)、北魏が首都大同に国力をかけて造営した雲岡石窟(460〜494)との比較を行なった。結果、文殊山前山千仏洞、金塔寺東・西窟、馬蹄寺千仏洞第1、2窟と、雲岡石第17、16窟(460年代後半〜470年初頭)との間に比較的多くの共通点が認められた。しかもその中の二、三の形式は、雲岡石窟からそれら石窟に伝えられたことから、文殊山前山千仏洞、金塔寺東・西窟、馬蹄寺千仏洞第1、2窟の開窟年代が、ほぼ460年代後半から470年代初頭にかけてであったと推測される。つまり河西石窟群は造営時期に関して、第一期、第二期の二種類のグループが存在し、少なくとも上記の石窟は北魏統一以後、雲岡石窟と併行して開かれたことが理解される。しかし西域と隣接する地域に開かれたそれら石窟は、オアシス付近の山中に開かれるというように、環境的に西域と近い関係にある。また塑像や壁画の様式、形式をみても、それらが西域の文化圏に属していたことは明らかで、基本的に西域仏教美術を模倣する自らの伝統を保持していたことになる。ただしそれはあくまで模倣であり、西域と完全には同じでない点において、河西石窟群第二期諸窟は、西域とも雲岡石窟とも異なる独自性を有していたと結論される。
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