私たちは先に「日本古代における木彫像の樹種と用材観-7・8世紀を中心に-」(『MUSEUM』555号平成10年8月)という論文で、日本古代の木彫像は、7世紀ではクスノキの使用が原則であるのに対し、8世紀にはその代表作例が定説のヒノキではなく、いずれもカヤを用いていることを科学的に立証した。そして、カヤが木彫像の材として尊重された理由を以下のように指摘した。つまり、古代インドでは白檀が仏像の材として尊重されたが、それが自生しない中国では唐時代になると、代用材として「栢」を用いることが説かれるようになった。8世紀に日本に渡来した唐僧・鑑真はこうした木彫像の用材観を日本にもたらしたと考えられるが、日本では8世紀前半には「栢」をカヤとみなしており、この時期の代表的木彫像がカヤを用いたのも白檀の代用材としての選択であったと考えられる。 今回私たちは、木彫像調査の範囲を奈良時代から平安時代初期の各地の作例にまで拡大し、また、当該期の乾漆像や塑像の心木まで広げた結果、木彫像ではカヤを用いることが中央から地方にまで及んでいることを確認した。当該期の木彫像の大半は、一木造りであるが、像の大きさと種類を問わず、カヤを用いることが広い地域で原則となっていたと考えられる。また、カヤが自生しないか、ごく少ない地域、たとえば、東北地方では他の樹種(ケヤキ)を使用していることが判明した。乾漆像や塑像の心木については、例外を除いてカヤを使用せず、ヒノキ、ケヤキ、キリなどを用いているという興味深い事実を確認した。それは木心乾漆像や塑像と、木彫像とは全く別の意識で制作されたことを意味しており、木心乾漆像の心木部が発達することで当該期の一木彫刻が発生したとする説を用材観という観点から否定するものとなった。
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