本年度は、狭い意味での映画検閲に関してでははなく、1940年代における全体主義と映画との結びつきをテーマとして取り上げて(主として日本を中心にして)、映画に対する社会的抑圧の問題を広い文脈から分析した。長谷正人は、まず論文「テクノロジーの経験としての映画」において、レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』と『民族の祭典』や日本の国策映画などの全体主義的プロパガンダ映画に繰り返し表れる力強い身体のイメージを「鎧としての身体」と名付けて分析した。つまり、リーフェンシュタールの映画に表現された、ギリシア彫刻的な筋肉を付けて逞しくスポーツをする身体や、画一的行進の身振りによって集団的塊を形成する身体にせよ、日本映画における、飛行機や戦車によって武装した身体にせよ、そこでは一種の「鎧」を覆って自らの脆弱さを隠蔽した身体が表れているのだ。このように映画は、全体主義的に規律化された身体のイメージを社会に流布するメディアとして機能した。また論文「日本映画と全体主義」においては、日本映画の全体主義政策に深く関わった批評家・津村秀夫の当時の言説を分析することによって、全体主義的な映画統制政策のありようを分析した。津村は、日本の商業主義的映画の質の低さを批判し、それを向上させるための製作体制作りの必要条件として国家的統制を主張し、実際に実現させたのである。これに対して加藤幹郎は、論文「視線の集中砲火」において溝口健二の『残菊物語』を取り上げて、この切り返しショットをめぐって徹底的なテクスト分析を行い、そこから溝口映画のハリウッド的スタイルとは異なる特異性を浮き彫りにした。その地点でこの論文は終わっているが、恐らくこの溝口の特異性は、全体主義的な映画表現と結びついているというのが私達の現在の仮説である。
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