本研究成果のポイントは、映画検閲を、単なる権力による表現の抑圧の問題としてではなく、より広い社会学的パースペクティヴのもとに持ち出して分析したことにある。つまり検閲をめぐる従来の常識的な議論は、映画検閲を行政機関と映画作家との間に生じる、思想や性表現をめぐる対立と抑圧の問題として考えてきただろう。このような問題がハリウッド映画産業や日本においてどのように生じたかは、既に加藤も長谷も既存の研究で明らかにしてきた。これに対してここでは新たに、検閲をより広く、社会的言説の複合的な闘争の場における政治問題として検討した。 例えば長谷は論文「フィクション映画の『社会性』とは何か」において、『国民の創生』という映画が、社会的言説によってどのように人種差別映画というレッテルを貼られ、様々な内容の批判を浴び、黒人団体による上映中止の運動を巻き起こしていったかを歴史社会学的に分析した。ここでは権力による表現の自由の抑圧という単純な図式では割り切れないものとして、映画の内容が公的上映に相応しいものかどうかが社会的な審判に付されていることが分かる。つまり行政機関が権力的に映画を検閲する以前に、社会的な言説の場において映画は一種の「検閲」を受けているのである。あるいは加藤は著書『映画とは何か』のなかにおいて、ハリウッドの主流派映画とは全く異なる黒人向け映画の、スペクタクル的な様式について分析した。ここにも黒人観客による受容の様式が一種の社会的「検閲」として、黒人映画の内容を決定していたことが確認できるだろう。つまり検閲は、社会的言説が様々に錯綜する場における熾烈な文化闘争の場のなかで、社会的に生じてくるものなのである。こうした認識を前提にしてはじめて、検閲を根源的に批判するような視点が開けてくるはずである。
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