本年度は人権宣言が成立するにいたるまでの議会での議論を中心に研究を進めた。議会が憲法の作成を本格的にはじめた8月1-4日の議論では次の3点が問題となってくる。(1)憲法の冒頭に権利の宣言をおくかいなかをめぐる議論。これについては賛否双方の意見が提出されるが、結局のところおくことが決定する。多くの議員はやはり社会が再生したことの証としての宣言の必要性を感じ取っていた。(2)次にアメリカが独立したときにいくつかの州でなされた宣言を自分たちの宣言のモデルとするという提案。だが新大陸で独立を果たした国と、疲弊していたとはいえ数世紀にわたる歴史をもつ国とでは条件が異なるというのが、宣言自体には賛成する側でも共有された認識であった。つまり彼らにとって革命はまったくの無からの創造ではなかった。(3)権利のみならず「義務」もまた宣言すべきであるという意見が出てくるが、これはさしあたり退けられる。だが、このような意見がすでにこの段階で出ていたことは、のちの1795年憲法に付された権利と義務の宣言の保守性・ブルジョワ性を読みとる解釈の再考を促すだろう。さて、この直後に封建制の廃止を決議した議会は、そのための法制化に1週間を費やしたあと、あらためて宣言の作業に戻り、逐条審議が20日からはじまる。ここではさまざまな思惑が絡み、大胆と逡巡が交互に繰り返され、妥協の結果として次々と条文が確定してゆく。とりわけ第10条となる信教の自由をめぐる条文は2日間にわたる大議論を呼んだ。しかしその後は、多くの者が議論に疲れてきたのであろうか、各条文は急いで確定されてゆき、思想の自由は唱われてもそのなかにたとえば信書の秘密など具体的なことがらへの言及は見られないなど、抽象的な内容に終わっていった。また公的扶助など、いくつかの重要な問題が無視された。そして27日になって議論は途中でうち切られてしまう。こうして成立した宣言は未完の宣言でもあった。以上の事情から読みとれるいくつかの問題が、宣言に象徴される「市民」の概念にも姿を現すことは言うまでもない。
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