ユーゴ紛争の根本問題 ユーゴ最大の不安定要因は、セルビア人とクロアチア人が国家形態をめぐり相容れない政治的志向を有していたことであった。歴史的にいえば、ユーゴが中央集権国家の形態をとり、セルビアがその覇権を握っていた時代には、クロアチア人は連邦主義を求めて激しい政治闘争をおこなった。両大戦間期の大きな問題は「クロアチア問題」であった。しかしパルチザン戦争を経由して戦後に誕生した社会主義ユーゴが連邦主義の国家形態を採用したとき、セルビアとセルビア人の処理が大きな問題になった。 クロアチア人であるチトーは当初、セルビアとセルビア人の間での支持基盤を強固にするため、セルビアに対して妥協的な政策を示していた。彼はベオグラードを連邦の首都に定め、中央集権的な政治・経済体制のもとでセルビアとセルビア人の優位を久しく容認していた。しかしランコビッチの事件をきっかけに、チトーはセルビアに対する妥協的政策と決別した。彼はスロベニア人の党官僚カルデリの考えを重用して、政治・経済システムの分権化を推し進めた。セルビアの自治州に共和国に等しい地位を認め、ユーゴ連邦を同格・対等の六つの共和国と二つの自治州で構成される連合体に再編成した。一九七四年憲法体制は、コンセンサス方式とパワー・バランスを前提とする意思決定のシステムを法的に確定し、セルビアの覇権回復の可能性を事実上封じ込めたのである。 このような体制は、セルビアにとって、既得権の削減を意味していた。とくにセルビア内部に強大な自治権を有する自治州を設定されたことは大きな屈辱であった。コンセンサス方式とパワー・バランスを前提とする意思決定のシステムによってセルビアの党官僚の抵抗は手詰まりの状態に陥り、セルビア人の民族的な不満は欝積していった。こうした状況を、セルビア民族主義のグループと手を組み、ポピュリスト的手段に訴えて打開しようと試みたのがミロシェビッチである。セルビアにとって、ミロシェビッチの行動は失地回復の運動(いわゆるレコンキスタ)を意味していた。それはランコビッチの失脚以来、チトーとその追従者の打ち出す政策に対して、有効な抵抗を示すことができず敗北を重ねてきたセルビアの党官僚の逆襲であった。だがそのためにユーゴは解体への道を突き進むことになった。
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