戦前期日本の教育の特質として、「操行査定」という教育評価に代表される「人物評価」が重要な位置を占めたことがあげられる。本研究は、中学校において「操行査定」がいかに実施されていたのか、その内容と方法の実態、さらにはその成果や当時様々に指摘されていた問題点を解明することを目的とした。 (1)まず「操行査定」という教育評価制度が成立していく過程の解明を行った。具体的には、明治後半期に焦点をあて、一八八七年八月六日付文部省訓令第号により各地で実施された、いわゆる「人物査定」をめぐる一連の動向が、「操行査定」制度に結実していく経緯を解明した。これまでの調査では、「人物査定会規定」(富山県一八八八年)、「学校生徒人物査定法標準」(石川県一八八九年)のように、府県単位で制度化され実施されていたケースが多いことが判明した。 (2)さらに、各県あるいは各中学校ごとに実施されていた「操行査定」の多様な実態を、「生徒操行検定取扱細則」「尋常中学校生徒操行検定規則」「生徒操行調査標準要目」「操行査定内規」等々の具体的な史料を収集することを通して、その内容と方法に立ち入って解明した。その結果、「操行査定」は各中学校ごとに多様な形態で独自に実施されていた場合が多く、それらの異同を明らかにすることの重要性が認識された。 (3)中学校の「操行査定」の特質を明らかにするために、実業学校や専門学校のそれとの比較が有効であることを確認した。特に、同じ男子中等教育機関としての実業学校では、多くの場合に「操行査定内規」が学則で制定されていることが判明した。ただし、成績全体における「操行査定」の位置づけや査定のプロセスは、中学校ほどには緻密に規定されていない。それと明確な違いがあるのが、高等女学校である。こうした異同の解明を視野においた。
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