国民教育制度成立期に法紛争問題となったのは、教科書である。その理由は、義務教育制度の確立以降も、カトリック勢力が義務教育に対して批判的な態度をとったためである。カトリックの政治的立場は、保守的立場である。そのため、共和国のための義務教育確立派とは進歩的勢力であった。しかし、当時の政治情勢から、義務教育は必ずしも子どもの権利に対応するのもではなかった。1870年頃、義務教育制度確立のために運動したジャン・マセは、徴兵制度の支持者であった。そして彼の議論では、普通選挙(男子)による弊害を、義務教育によって取り除くのである。つまり、最初から共和国を守るための、治安目的の教育制度が義務教育であった。 教科書制度そのものは、革命後導入された事前審査制度が失敗した。それはギゾー法(1833年6月28日法)、1835年2月27日規則、ファルー法(1850年3月15日法)をへて、第三共和制になった。1880年6月16日アレテにより、初等教育教科書の自由選択制が、1881年10月13日通達によって、中等教育における自由選択制が導入された。そのため、形式上、教科書選択は教師の主体的判断によるということになった。そのため、教師・学校が、カトリックの父母による批判対象となった。しかし、司法当局は、判決において教育内容に関わることをさけた。彼らはもっぱら教師の教科書選択における法定手続上の瑕疵有無に論点を限定した。そのため、子どもの権利や父母の権利について実体的審理をすることなく、宗教勢力による教育介入を阻止していた。
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