奈良仏教は、これまでの研究において難解な学解の仏教であると定義され、中央の文化を象徴するものとして、地方へ国分寺などを通じて政策的な意図のもとに浸透していったされてきた。故に地方における奈良仏教の研究は国分寺など官衙付属寺院址の研究が主体であった。奈良仏教の研究は、中央の大寺院(官大寺)とそれを支える高僧としての官僧と学問的な意義が中心であった。本研究は、こうした傾向に対して岩手県北上地方・福島県会津地方・滋賀県湖北地方、さらには佐賀県有明地方を事例として、各地方に伝存する奈良仏教を支えた行基・徳一・泰澄などの高僧に関する伝承・縁起史料を手がかりに、彼らの信仰的な特質を解明することが可能な史料の収集を行った。こうした作業の蓄積をはかることによって、奈良仏教の信仰的な解明を試みることにあった。その経過のなかで、高僧が造仏したと伝える仏像群の存在を知り得た。各地方には、高僧が造仏したと伝える十一面観音像や薬師如来像等を主とする仏教美術史料を見出すことができた。これらの仏教美術史料は、高僧が観音信仰や薬師信仰を信仰的契機として奈良仏教を地方に浸透させたことを物語るものではないかという仮説を提示することができた。この仮説を実証することによって、今後の奈良仏教の研究の研究素材の増大と拡散を期待しうるものと確信している。なお、今後の課題としては、仏像群に投影された奈良仏教に関わる信仰的な要素を日本仏教史のみならず日本仏教美術史の視点も交えて年代の特定化なり信仰史的な位置づけを、より一層確実なものしていくことである。
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