本年度の研究の中心は、赭鞭会の主要メンバーであった第10代富山藩主前田利保が隠居して富山に帰郷して後、利保が主導して藩士たちとともに始めた本草研究会「日新会」について検討した。日新会の活動実態の詳細はいまだ不明とせざるをえないが、その活動は富山藩の殖産興業策の一環であったとの結論を得た。 この研究会の活動と並行して嘉永6年(1853)に開催された「富山藩薬品会」は藩主利保が主導し、あるいは少なくとも後方から経済的その他の援助を惜しまなかったことだけは確かである。出品者38名のほとんどが富山藩士であり、利保とも密接な関係にあった人物であることなどを考え合わせれば、この薬品会は日新会の活動が一つの形をとったものとしてよい。 これらの活動は明治9年9月に開催された「富山博覧会」へとつながってゆく。明治の早い時期に富山において博覧会が開催されたこと自体、藩政期以来の本草研究の蓄積と富山藩薬品会の開催の経験があったからに相違ない。富山藩における日新会の活動はこのように新時代の殖産興業への橋渡しの役割を果たしたといえるのである。 日新会の記録と推定できる資料が何点か残っており、現在これらの資料の分析をしているところである。 なお、本草学とは直接的にかかわる事柄ではないが、これまでの分析から予想外の新事実が浮かび上がって来た。前田利保は天保後半ごろから金属活字を所有しており、利保の出版した著書のなかに金属活字を用いて出版されたものがみられることである。
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