本研究は、日本古代の荘園と周辺村落の農事の展開を季節軸の観点から、農事内容、荘園経営、村落構成を重点において考察したものである。とくに北陸地域の遺跡から出土した木簡・墨書土器や文書・記録のデータを駆使し、村落における百姓の生産活動と春・夏・秋・冬の農事暦との関わりに注意を向けた。古代「百姓」の居住形態は、行政組織では郡-里(郷)-戸(戸口)のなかに位置するが、実際の生活・生産の基盤は史料に散見する「村」にあると考えられる。近年、多くの研究者が注目する「郷」と「村」と「百姓」の関係について、金沢市の上荒屋遺跡(荘所と百姓の関係)、石川県津幡町の加茂遺跡(村と行政役人・百姓の関係)出土の木簡データを事例にして検討した。前者の「天安元年二月二十五日」の日付木簡は、荘園の現地機関である荘所と百姓の間に、賃租と呼ばれる小作関係を結び、小作料に当たる地子米を納めたもので、農事に関わる活動は春の「二月」から始まっていたことが明らかとなり、また後者の平安前期の郡符木簡に見える加賀国加賀郡の「深見村」「郷駅長」の文字については、この「郡符」の対象を「深見村」で活動する「郷長・駅長と諸刀祢等」とみ、深見村に在住または執務する郷長・駅長と諸刀祢等であったと解釈した。ここでは古代荘園の変質過程にある平安前期の北陸在地において、行政組織としての「郷」「駅」と「村」が併存し、「村」組織が公的に認知されていたことが分かる。こめ表示は荘園周辺に展開した「村」(荘園村落)の場合にも共通するとみられ、荘園経営に関与した農民は、旧暦のとくに仲春(二月)から初冬(十月)にかけて、開発(開墾・水利)、生産・経営(田植・賃租・養蚕)、税・生活(出挙・交易・祭祀)を規則的に展開したと考えられる。これにより在地村落の百姓が、私田・公田を中心とする生産活動と衣食住に関わる生活を「暦」(季節)を中心に営んだ様相がさらに明かとなる。
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