まず、古代から中世への変革期とみられる文治建久年間(1185〜1199)の神宮を分析し、神宮に関する案件が京都の朝延で極めて重視されている様子を概観した。そして、開府間もない鎌倉幕府もまた、初代将軍・源頼朝に神宮尊重の気持ちが強く、建久年間の諸遷宮は、朝廷と幕府が良く協調して実施されたことを明らかにした。これは、神宮側の祭主、宮司また祠官達に、強い自覚を促したことが容易に類推できるものである。 次に、このような頼朝の神宮重視の姿勢が何に影響されどのように形成していくのかを、鎌倉幕府の基本史料である『吾妻鏡』から、伊勢神宮関係記事を抽出することによって検討を加え、頼朝のそれが、彼の伊豆配流中に東国に下向していた神宮祠官との交流を通じて形成されていく様子を、源氏嫡流に近い波多野氏に焦点をあてて論じた。しかし、頼朝以後は急速に神宮祠官と将軍家との関係が希薄になっており、逆に、神宮側としてもそれでは困ると考えたのであろうか、六波羅探題や、ことには幕閣で重きをなした安達氏に何らかの期待するところがあったことを明らかにした。 また、その成立時期を中心に、抜本的に見直しを進める必要がある伊勢神道(思想)について、これまでの研究史をまとめつつ、その問題点を明らかにすると同時に、今後の課題を指摘した。ことに、上記の如く、平安後期から鎌倉初期にかけての神宮側の自覚が、伊勢神道説の形成と何らかの関係があることが予測されることは、今後解明せねばならない重要な論点である。また、守覚法親王など、当該期の仏教界の中心人物やその周辺との接点も、さらに探っていかなければならないテーマである。 続いて、従来研究の少ない鎌倉期の祭主について、鎌倉中後期にかけて、それがしばしば交替している理由を問うた。それを明らかにすることは困難だったが、南北朝期に、醍醐三宝院門跡がこの祭主補任に関与している事例があることを示し、かかることが問題解明の鍵を握っていそうなことを指摘した。なお、『大日本史料』第四編、第五編(既刊分)、第六編(既刊分)より、伊勢神宮関連の網文を選び出して年表を作成した。
|