三河の錦小路家門人の取締だった酒井家宛の手紙をこれまで三冊まとめてきたが、四冊目を今年度に入って刊行した。主に酒井利亮と諸家との交わりをある程度明らかにしえたし、中に錦小路家門人のものも含まれている。利亮と最も交友の深かった村上忠順宅に残っている史料の整理・調査を行い、豊田市郷土館の協力を得て目録を作成した。地域の知識人達の置かれた文化的状況がかなり窺えた。三河以外のまとまった錦小路家門人として北伊勢地域で幕末に入門したグループを見出し、三人の子孫宅の史料を中心に「錦小路家門人の一形態-北伊勢地域の場合-」をまとめた。これは三河と異なり、錦小路家の蔵書の利用を希望しての入門だった。その関連で足代弘訓旧蔵の錦小路家の蔵書目録を神宮文庫で知り、文中に活字化した。また一家で三代錦小路家に入門した滋賀県甲賀郡甲賀町の河合家とその門人三重県一志郡嬉野町の在間家の存在を知り、調査を行った。河合家が得た最初の入門許状は文政年間、錦小路頼易からのものだった。これまで天保年間の酒井家のものが最も古かったが、それより十数年早いものであり、錦小路家の医家統制の動きを考える上で貴重なものである。また河合文雄は俳人としても文台を贈られるほど著名であり、医家の多様な活動を検討する手懸りが得られた。なお、錦小路頼庸と尚秀の日記を国立公文書館で確認、一部写真版を入手した。錦小路家門人で華岡門人でもあった早川賢三(岐阜県関市)、小森家門人の武者養庵(府中市)の子孫宅も調査若干の史料が得られた。小森家門人は、錦小路家にも入門した三河の水野俊斎と二人しか知られていない。
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