1877年(明治10)に東京上野で第一回目が開催された内国勧業博覧会は、その名が世に知られているにもかかわらず、その実態は曖昧なまま、日本の経済発展に貢献したと解釈されている。本研究は、この曖昧な博覧会像を多少なりとも鮮明にするため、平成11年から同14年まで4年間にわたり万国博覧会や共進会も検討しながら、内国勧業博覧会に関する分析を行い、明治政府の殖産興業政策を明らかにしたものである。 第一章では、博覧会という西洋文明が比較的スムーズに明治社会に導入、定着したことを明らかにした。第二章では、施設と展示技術が向上したが、自発的な出品者は少なく、博覧会の規模は拡大したが博覧会出品が有益であるという認識は一般的ではなかったことを実証した。第三章では、日本の国力が、いまだアジア規模の博覧会開催が出来ないことを記した。第四章では、第三回内国勧業博覧会は博覧会が社会に定着するとともに、博覧会に関する諸問題が顕在化したことを実証した。第五章では第四回内国博の出品物数の変動要因として、(1)出品物の精選、(2)日清戦争(各業種の繁忙による出品困難、運輸不便による出品困難)の存在を提示した。第六章では、第1回(1877年)、第3回(1890年)、第5回(1903年)の出品物と審査報告を分析し、機械化の特徴を提示した。 以上のように、本書は全六章構成であるが、これで決して内国勧業博覧会の実態を明らかにしたとは言い難い。今後は、出品物や地域レベルにおける出品活動をとおして、明治社会において内国勧業博覧会をはじめとする勧業諸会がどのように捉えられていたか、把握する必要があると思われる。
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