清初の満文档案史料である『旧満洲档』『内国史院档案』などから、清朝の内モンゴル支配に関するデータベースの一部を作成した。 このデータベースに基づき、清朝がホルチン部をはじめとする内モンゴル諸部から必要な軍事力を引き出すために、どのような法支配を展開していったかを分析した。 その結果、以下のことを明らかにした。 アイシン国ハン(後の清朝皇帝)であるホンタイジは1627年の即位以来、自分の言が軍令であることを内モンゴル諸首長に実力で確認させ、ついで内モンゴル諸部の兵にアイシン国軍と同じ作戦行動を取らせ、同じ軍規を遵守させ、違反するものを直接処罰した。これにより、出征中においては、内モンゴル諸部の首長らが属民に対して有していた伝統的な支配権は制限され、アイシン国ハンの支配下にあることを、諸首長に認識させたのである。ホンタイジは内モンゴル諸部の軍事力に期待して動員したのであるが、戦争という機会をとらえて、内モンゴル諸部を支配下に取り込もうという意図をも持っていたのである。この意図は短期間に実現されたようで、1634年の内モンゴル諸首長の行動からは、ホンタイジに対する服従への規範意識が形成されていたことを確認できる。このような法支配の実績を前提として、内モンゴル諸部を八旗と同じく旗を単位とするジャサク旗に編成し、八旗に倣った官制をジャサク旗に敷き、八旗の旗王が麾下の旗人に対して持つ権利に倣って、ジャサクとなった内モンゴル諸首長が属民に対して有する権利を設定していったのである。
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