研究概要 |
本研究において楠木は,清朝が内モンゴル諸部を,満洲族の八旗と同じジャサク旗という軍事的社会組織に編成することによって,必要な軍事力をどのように引き出そうとしたかについて,以下の3点を明らかにした。 (1)清の太宗ホンタイジは、天総2年(1628)の対チャハル部戦において、帰順した内モンゴル諸首長に対して出兵の要請をし、これにホルチン部長オーバが従わなかった機会をとらえ、オーバを糾弾し、屈服させた。これによってホンタイジは、自分の言が軍令であることを、帰順した内モンゴル諸首長に確認させた。また出征中においては、内モンゴル諸部の首長らが属民に対して有していた伝統的な支配権は制限され、アイシン国ハンの支配下にあることを、ホンタイジは内モンゴルの諸首長及び属民たちに認識させた。 (2)天総6年の大凌河攻城戦においてホンタイジは、八旗と後にジャサク旗となるモンゴル諸部、それに両者の中間的な存在であるオボンドイ・ウネゲの2軍団、エンゲデル・ミンガンの2軍団を、ともにグサという部隊編成単位として認識し、共同で作戦行動を取らせた。これはホンタイジが八旗とジャサク旗に対して、その起源から、一つの構造を構成する連続する部分であると認識していたことを示す。 (3)崇徳元年(1636)のホンタイジによる諸王冊封は、八旗の各旗を率いる宗室の諸ベイレ及び、同盟勢力として実績のあった内モンゴル諸部の首長に対して行ったものであった。ホンタイジは、建国・皇帝即位に伴う諸王冊封という極めて中華王朝的な儀礼を行いながらも、自らが直轄の両黄旗を率いて権力の中心に位置し、残りの六旗を率いる宗室の諸ベイレ・麾下であるジャサク旗を率いるモンゴルの諸首長による内外二重の同心円が取り囲むハーン体制という極めて北アジア的な政権構想を示した。
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