研究概要 |
1.「庚戌の変」すなわちアルタンによる北京包囲(1550)の翌年,嘉靖帝の寵臣仇鸞の提案によって,明朝はモンゴルとの馬市を許可した。この馬市は1年間のみおこなわれ,絶貢政策への復帰と仇鸞一派の没落をもって終結したため,その経緯や意義についてはこれまで深く追究されなかった。当該時期の諸資料を精査することによって,下記のような点を明らかにした。 (1)アルタンの連年の進攻が、モンゴルと漢人との間に生じたさまざまな結合を背景としていた。 (2)これが、1540年代前半からモンゴルとの交易の必要性を主張していた總督翁萬達,総兵官周尚文ら大同の当局者と、北京の政治姿勢との亀裂を生じさせた。 (3)1年限りで決裂した1551年の馬市は,20年後に「北虜問題」を終息させることとなるアルタン封貢の雛形をなしていた。 (4)モンゴル側は,馬牛羊と絹,棉布の交易のみならず穀物の売却を明側に要求し,大同における明側の馬市責任者であった史道もこれを求めたが,朝廷中枢が猜疑によってこれを否定し馬市をうち切った。 辺境における人や物資の交流の深化と,このあらたな事態に対応できなかった明朝の政策との軋轢が,1570年までつづく北虜問題を底通していた。この評価は,本研究によって重要な立脚点を得た。 2.北辺における多元社会の形成の焦点をなす遼東地区については,1610年代以降の最重要資料である熊廷弼の奏議・書簡類を,明代刊本にもとづいて整理する作業をすすめている。
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