研究概要 |
16世紀の中国辺境社会の変化は,二つの領域において顕著であった。海上の辺境たる中国東南沿岸の港湾,島嶼から日本および東南アジア方面では,華夷混合の居留地や海賊集団が形成された。北辺の長城ライン内外および遼東地域では,越境した華人集団が形成され,モンゴルやジュシェンも積極的にかれらを保護し利用した。「北虜南倭」の危機は,上記のような辺境における華夷混合社会の形成を背景とするものであった。 このような華夷混合社会の出現は,中国の絹製品,木綿製品,各種瓷器などにたいする需要のたかまりによる交易の活発化を主たる要因としていた。辺境の商業ブームは,16世紀40年代にはじまる大量の日本銀の流入とも深いつながりをもつ。辺境の華夷混合の集団は,しばしば軍事商業集団として活動した。こうした性格は,密輸をおこなったり交易の管理権を握ったりすることで利益をえた辺境の軍隊にも現れた。つまり境界をはさんでその両側に類似した性格の集団があらわれるという対称的な構造がみられたわけである。 遼東におけるモンゴル・ジュシェン諸集団と明朝との関係は,おおむね辺境交易の利害を軸として変動していたことが明かとなった。貢敕制度による交易の規制と特権の分与は,覊縻政策によって地域の安定化をはかる明当局にとって重要な手段であり,モンゴル・ジュシェン諸集団相互の勢力関係も,対明交易にどのようにかかわり,そこからいかに大きな利益を上げるかという点によって左右されていた。 やがてヌルハチのもと,ジュルチン・モンゴル・漢人の三重帝国として発展していった満洲集団には、海の上の南倭=倭冦とおなじく、言語や種族を乗りこえて形成されたマージナルマンの姿がつよく表れている。中心と辺縁とのあいだを動いた銀と商品、辺境の経済ブームのなかに生じた武装-商業集団の活動。この二つの事態が、十六世紀の半ばからおよそ百年にわたる東アジア全域の動乱と再編の底流をなしていたと評価することが可能である。
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