19世紀末から20世紀初頭の上海は、中国の総貿易額の50パーセント前後を締め続けたが、この外国貿易の増加に刺激を受けて、商工業や金融業が発達しはじめた。こうした状況は、郷紳たちを経済活動に引き付ける一方で、商人たちの社会的地位の上昇をもたらした。この結果、上海のような大都市においては、紳商と称されるような人々が一つの階層を形成するようになった。 開港にともなって設置された租界の拡大は、欧米の異文化を上海社会にもたらすことにもなった。上海の都市域には商業や金融業のための高層建築だけではなく、洋風の住宅も出現した。租界行政制度のみならず、こうした異文化に同調して行ったのは紳商層であった。しかし同時に、彼らはこの時期のナショナリズムの担い手でもあり、弱体な中央政府に対して地方政治組織の近代的革新と、自らの政治参加を推進して行った。まず紳商層は、上海の都市域における自治に着手した。具体的には上海城内と南市を対象とする自治組織を創設したが、そこには近代的行政制度を導入することで租界に対抗しようとする意図があった。紳商たちは、さらに県政や省政への参加も追及するようになった。 以上のような背景もあって、中華民国は独立を宣言した各省のルーズな連合体として出発せざるをえなかった。中華民国の歴代の中央政府は、このルーズな連合の集権的な統合への再編成を追求したが、なかでも近代的財政システムの確立が重要な課題となった。この近代的財政システムの確立という点に関して、北京政府時期に最も具体的な施策を試みたが衰世凱政権であった。
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