研究概要 |
近年出土の戦国楚国竹簡資料のなかから包山楚簡をとりあげ,そのなかの司法関係記事を分析して,国都所在中央司法官庁からの指令発信期日と,事件関係者の中央司法官庁への出廷期日との間隔が,国都と事件発生地との距離にある程度対応しているという事実を発見し,この事実に基づいて,包山楚簡・天皇観楚簡・鄂君啓節に共通して見られる三箇所の地名について,その位置を明らかにした.この結果,この三つの出土資料に見える諸地名の位置を相互整合的に比定するには,国都郢を江陵紀南城にあてるしかないことが判明し,少なくともこれら三資料が書かれた前4世紀後半(戦国晩期)の郢は確かに紀南城であったことがまず確認され,ついで,孝古資料によって前5世紀中ごろから前3世紀前半に至るまで,紀南城の国都としての機能が不断に連続していたことを確認して,要するに出土文字資料と孝古資料という同時代資料による限り,春秋末・戦国初から前278年の郢都陥落まで,郢は一貫して江陵紀南城に他ならなかったことを論証した. 引き続いて,紀南城大城壁内部の宮殿址・住居址・水路址・河港址などの分布情況を分析して,城内東南部に左右対称の宮殿配置プランをもった内城区があったことを確認し,さらにその内城区文化層の年代が大城壁築城年代をかなりさかのぼることを確認した.この結果,大城壁の築城年代である春秋末・戦国初以前,つまり春秋時代には左右対照の宮殿配置プランをもつ都市がすでにここに存在していたことが論証されることになった. このようにして,内城区の始建年代が未確定ではあるものの,江陵紀南城は春秋から戦国晩期(前278年)まで一貫して楚の国都郢であり,春秋末・戦国初における大城壁の築城は,郢の新建を指すのではなく,既存の郢における外郭城壁の築城にすぎないことを明らかにし,論争の続いている郢の始建・沿革・位置問題に,決定的意見を提出した.
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