本研究は初期オスマン朝政権と西北アナトリア諸都市の関わりを解明するために、ソユトSogut、ビレジクBilecik、イェニシェヒルYenisehir、ブルサBursaなどの内陸都市を対象にその政治的及び経済的な役割の実態を考察することを目指して開始された。しかし、考察を進める中でアナトリア沿岸諸都市の重要性もまた省みられるべきものと考えるにいたった。 そこで、いささか時代は下るが16世紀前半に編纂された地中海航海案内書『キタ-ブ・バフリエ』の叙述に基づいてアナトリア半島の地中海沿岸諸都市-史料の性格上、比較的小規模な港湾、村落も叙述される-の状況を考察しようと試みた。『キターブ・バフリエ』が検討対象とされたのは、少なくとも前半期のオスマン朝史を通じて、「海」側から見たアナトリア諸都市の記述を我々に提供してくれる唯一の文献であるからである。なお、検討対象地域も西北アナトリアに限らず西南、南アナトリアへ拡大し、より広い視野で問題を考察しようと意図した。 『キターブ・バフリエ』を概観すると、スルターニーヤSul【approximately equal】aniyaとカリード・アル・バフルKalid al-Baφrに始まって、Iskandarun[Iskenderun]の近辺及ぴアヤースAyas[Yumurtalik]にいたるエーゲ海・地中海沿岸地域一帯に関して具体的な記述が見られる。スルターニーヤとカリード・アル・バフル、イズミールIzmir、フォチャFoca、さらにはアランヤAlanyaに関しては特に興味深い記述ならびに地図描写が見られ、前半期オスマン朝が当該地域に対して強い関心を有していたことが知られる。 研究期間を通じて、設定された課題が必ずしも十分に解明されたとは言えないが、報告書において『キターブ・バフリエ』に現れる沿岸諸都市関係の記述を訳出して注を付し、今後のより詳細な分析・検討のよすがとしたい。
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