当該地域の碑文史料を分析した結果、ローマ化の激しい流れの中にあっても、土着の要素が根強く生き延びていたことは明らかである。特に、今回我々が検討した地域は、ローマと最も密接な関係を持ったゲルマン族の居住地である。このような地において、なおかつこれだけの土着的要素が残されたことに注目したい。しかも、今回取り上げた碑文の多くは、当該属州の前線や主要道路に沿った比較的少数の都市センター近郊から発見されたものであった。先に見たヴァイスゲルバーが同様の調査をメッツやトリアーや中央ヒスパーニアで行ったとき、それぞれの地の人名のローマ化の割合は遥かに低い数字に留まった。ロストフツェフがかつて主張したように、都市化されたのは都市の上層民だけで、周辺村落民の多くはローマ化とは無関係であった、というのは明らかに行き過ぎであろう。けれども、上記した諸々の事情を勘案するとき、やはりローマ化の限界を考えざる得ない。自らの文化に比べれば遥かに洗練されたギリシア-ローマの文化に憧れながらも、人々は己が文化への誇りも保ち続けたのである。彼等の宗教生活の中でローマ化が急速に進んだ部分も、無論多い。宗教行動や儀式は次第にローマ化されていった。だが、逆に、土着宗教のローマ化はその底流にある宗教信仰を護るのには、寧ろ好都合であった。ローマ化された儀式形態を受け入れるのに充分柔軟な信仰体系を持つことによって、より古典的な形態のローマ宗教に疎外されたり、取って代わられたりすることなく、土着の信仰は生き延び許容されるものとなった。ローマ化は一直線に進められたのではなく、土着民個々人の幅広い自由裁量のもとにいわばジグザグに浸透していったのである。
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