1957年連邦議会選挙におけるドイツ社会民主党の敗北が、それまで伝統主義的な党官僚に押さえられ、挫折を続けていた様々な党改革推進勢力の活性化と党改革の実現につながった。この指摘自体は新しいものではないが、従来の研究では、党改革の実現過程は実証的に跡づけられないまま、党改革に熱心な「改革派」対オレンハウアー党首を中心とした党改革を阻害する「党官僚」の二項対立図式の中で、前者が後者を打倒してゆく過程として単線的に捉えられてきた。本研究では、補助金で可能となった社会民主党文書館での史料収集や購入文献に依拠し、1958年の党組織改革、1959年の基本綱領制定を中心に、これまでの研究のような二項対立図式を克服した党改革実現過程の詳細な分析分析を行うことができた。これが、今研究の特色である。 党内で強大な権力を行使していた専従党官僚を政治的に無力化した党常任幹事会(Parteiprasidium)の設置を核とする組織改革は、「改革派」が「党官僚」の頭目たるオレンハウアーを屈服させた結果というよりは、オレンハウアーと「改革派」の「対抗的協調関係」が形成されたことの結果であった。 そして党改革の頂点たるゴーデスベルク綱領は、「改革派」主導ではなく、オレンハウアーの強いイニシアティヴが発揮されて、定説で言われるような「党内コンセンサス形成」「民主的手続きを経ての合意形成の帰結」とは言いかねるやり方で制定されていたのである。 この研究の眼目は実証分析で、要約はしづらいが、詳しくは昨年末に完成し、現在審査中の学位請求論文「戦後ドイツ社会民主党の党改革実現過程」に展開した。また、そのエッセンスは、2001年3月に提出する科学研究費補助金報告書を参照されたい。
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