本研究は、「教皇領」形成に12世紀初期における「叙任権闘争」の諸交渉が果たした役割を探ろうとするものである。そうした問題関心から、教皇庁にあっての「教皇領」の認識と、「叙任権闘争」諸交渉における国際的認識を確定することを課題とした。 作業としては(1)ローマ教会の教皇庁における、国家的領域としての「聖ペテロのレガリア」という特有のコンセプトを確認する作業をまずおこない、それに基づいて(2)ローマ教会と神聖ローマ帝国との「叙任権闘争」の諸交渉において現れる審議過程、とりわけ「教皇領」についての審議過程を逐一確認する作業をおこなった。その結果の一部については、前山総一郎「改革教皇権におけるインヴェスティトゥーラ政策の理論的基礎」(『八戸大学紀要』21・22号)にまとめた。 その結果、大きく四つのことが得られた。第一に、当時教皇庁が自らの国家構想に基づいて「教皇領」を単なる世襲領ではなく国家的領土(「聖ペテロのレガリア」(regalia s.Petri))と捉えていたこと。 第二に、1111年2月のストゥリ交渉で「教皇領」問題がはじめて討議されたことである。「叙任権闘争」の交渉は1106年グァスタラ交渉で始まったが、当初は論点の摺り合わせに終始していた。1111年のストゥリ交渉で多くの論点で本格的審議が始まるが、まさに「教皇領」問題が初めて公式に扱われたのもこのストゥリ交渉である。 第三にこのストゥリ交渉での「教皇領」の扱いは「ローマ教会に返還する」という方向であるが、それはその後一貫しており、またそのまま1122年のヴォルムス協約の決議の柱をなすにいたった。 第四に、こうした「教皇領」に関する教会・帝国の合意は、教皇庁の「聖ペテロのレガリア」コンセプトを問題にはしていなかった。諸交渉という国際的舞台においては、あくまでもローマ教会が「教皇領」という国家的領有をし得る、という最低ラインでの合意がなされていたにすぎなかった。
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