アケメネス朝ペルシアとギリシア世界とはとかく対比的に、また敵対する関係として考えられてきた.しかしながら、両者を対比的にとらえるギリシア人の政治的プロパガンダとは裏腹に、両者は政治的関係においても社会・文化面においても豊かな関係を結んでいた。ペルシア戦争においてペルシアに抗戦し、戦後は対ペルシア同盟たるデロス同盟の盟主となったアテナイにおいて、まさに戦勝者の威厳とギリシア世界のリーダーとしての威厳を演出するために「ペルシア風」が流行したことは、その端的なあらわれである。アケメネス朝の支配領域と接する小アジア沿岸部のギリシア世界においては、両者の関係はさらに個別のレベルにまで及んでいた。この地域のギリシア人に貢租の支払いを求めていたアテナイとアケメネス朝の権力の狭間にあって、当該地域のギリシア人の対応は複雑である。当該地域のポリスの政治エリートらは、政治主導権をめぐる争いにしばしば両大国の介入を許し、互いに「親アテナイ派」「親ペルシア派」というレッテルを用いてライバルを中傷し、国内に内乱をもたらした。内乱の収拾如何によって当該ポリスはデロス同盟に所属(復帰)し、あるいは、デロス同盟から離脱したのである。このような状況は、従来、デロス同盟におけるアテナイの支配に対する反感から生じたものと解釈されてきた。しかし、ギリシア世界とアケメネス朝との関係を考慮に入れるならば、それはもともとあった状況としてとらえるべきである。このように考えることで、デロス同盟結成後、最初の20年間に起こった反乱や内乱について、いたずらに特殊事情としてアテナイの同盟支配についての考察の対象から外したり、エリュトライ決議(ML40)のように450年代末に年代を置き換えたりする必要がなくなる。なお、このエリュトライ決議の決議年代に関する論文についてはまもなく投稿する予定である。
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