平成14年度は、研究期間のしめくくりとして、1930年代後半におけるフランス・ナショナリズムの変質についての総括的研究を行った。これまで一貫して研究してきた青年右翼グループならびに、そのリーダー的存在のティエリー・モーニエについて、1935年から1937年にかけては、王党派の機関紙「クーリエ・ロワイヤル』紙1937年から1938年にかけては、青年右翼のメディア、『ランスルジェ』紙、『コンバ』紙に掲載されている論文、記事を詳細に検討した。その結果、35年エチオピア危機によって形成された反・反ファシズム派の流れは、36年には反人民戦線派の中心的論陣、37年には、スペイン内戦への政府の(共和国側での)介入の非難、さらにはフランコ側への支持まで訴える過程が明らかになった。この過程で注目されるのは、34年の2月6日事件でそれまでの、非順応主義世代と呼ばれた反体制的若者たちが、左右両国分解した後も、即座には旗色が鮮明にはならないことである。34年夏には「青年三部会」という集会による世代再結集の試みもあったし、エチオピア危機でイタリア制裁反対の立場にたった者がすべて親ファシズム派になったわけではない。しかしながら、36年になると、形成しつつある人民戦線との対決色が鮮明になる。特徴的なのは、人民戦線側の「反ファシズム知識人監視委員会」の向こうを張って、「青年監視委員会」なる組織を、青年右翼グループが立ち上げたことである。今回の研究の経過でその存在が明らかになった、「青年三部会」や「青年監視委員会」の意義を考察するにあたっては、パリ第十大学助教授オリヴィエ・ダール氏との頻繁な意見交換、ならびに14年春に実施したパリ郊外フオンテーヌブローにある国立公文書館分室での資料調査が有益であった。今後は、4年間の研究成果を報告書にまとめ、それをさらに補強して、単行本として公表することを考えている。
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