本研究の対象は、平和主義的風潮が支配的な両大戦間期フランスにおけるナショナリズムの変質過程である。具体的には、世紀末のドレフュス事件以来の反体制ナショナリズム団体、アクションフランセーズの流れをくむ青年右翼グループの動向を、その事実上のリーダー、ティエリー・モーニエの言動を中心に分析した。青年右翼グループは、1930年前後には、伝統的な保守的立場を離れ、左右横断的な反体制運動、いわゆる非順応主義の重要な一翼を担っていた。それが、1934年2月6日の騒擾事件によって、ファシズムに対する姿勢で、非順応主義運動が左右両極分解を余儀なくされ、青年右翼は、反ファシズム陣営からは「ファシズム」のレッテルを貼られることになる。本研究は、特に1930年代後半の青年右翼グループの動向を、2月6日事件の衝撃、エチオピア侵略イタリア制裁問題への対応、そして彼らが寄稿する雑誌、クーリエ・ロワイヤル、コンバ、ランスルジェ各誌の論調、さらにはモーニエの著作を詳細に検討することで明らかにした。その結果、青年右翼グループがもっともファシズムと近づいたとみられる1937年に、実は大きな転機が存在したことが判明した。その伏線は、すでに一部平和主義勢力との接近によってそれ以前からも存在していたが、1937年後半には、モーニエら青年右翼の再保守化、師モーラスへの回帰が読み取れる。とくに彼らの議論に頻出する「国民革命」という言葉の持つ意味が、2月6日事件直後には明らかに革命に比重があったのが、国民つまり保守的な意味合いが強まったことが確認できた。つまり、両大戦間期フランスにおけるナショナリズムが平和主義への接近を経て保守化していく延長線上に、ヴィシーの保守的な「国民革命」が存在するのである。
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