今年度の研究は、本来東西両教会内部における代表的な異端、すなわち東方ではネストリオス派、西方ではペラギウス派が排斥される過程と、両者を結ぶ共通の直接的、間接的繋がりがあったのか否かを検証することが第1の目的であった。また、教会内部の諸制度が確立していく過程を西方側、東方側、それぞれについて検証することが第2の目的であった。しかしながら、本年度明らかにできたのは、第1の目的については、ペラギウス派排斥の過程が西方教会教皇権の確立にいかに資するものであったか、という点、また、第2の目的については、教会制度の中でもローマ教会と教皇の首位権が確立していく過程に的を絞り、教皇権確立の外的要因、ならびに内的要因を、主に4世紀から5世紀に限って明らかにする点に留まった。 帝政末期における教皇権の確立については、西方側の首都としての伝統的地位以外に、ローマが使徒ペトロとパウロの殉教の地であったことに由来する古典的権威、更には異端を排斥する必要性に基づく正統派の拠り所としての権威が求められたとするのが一般的な理解であった。本年度の研究では、以上の伝統的見解に加えて、むしろ教皇権確立に際しては、対立する諸陣営の抗争がより上位の権威によって自らを正当化することを求めた結果、教皇の権威が不動の地位にまで高められることになったという教会政治的利害の存在を浮き彫りにした。その意味では、異端が教皇に対立し、正統派が教皇を支持するといった単純な図式では割り切れない複雑な状況が存した。つまり、対立する諸陣営それぞれが個々の陣営にとって有利な教皇を権威として祀り上げることによって、最終的にはその抗争に勝利した側が正統となり、破れた側が異端として排斥された。その結果、最終的に教皇の権威は、個々の教皇の人格や功績からは全く独立した別個の権威、更に法によって裏づけられる権威にまで高められることとなったのである。
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