本年度は、キリスト教的アスケーシスを西方圏へ伝えようとした東方型修道制の担い手たちが異端として排斥される過程と、さらにこれと並行して西方教会において生じた教皇権確立の過程という特徴的な二つの側面から当該研究課題にアプローチした。それぞれの研究内容は、1)東方型アスケーシスのローマ市移植における挫折要因、ならびに2)ローマ帝政末期における教皇権確立の諸要因、と題する二本の論文として公にされる予定である。 1)の主要な概要として、まず、帝政末期のローマ社会がキリスト教的アスケーシスを受け入れられなかったのは、帝国の秩序維持を教会に期待した皇帝はじめ上層部が、性急なキリスト教化を焦るあまり、教会内部に世俗の力関係が入り込むことを許す結果となり、いわば、教会が急速に世俗化していったためであることを明らかにした。いかなる罪も赦されるとする寛容主義者の存在や、王ヴィニアーヌスのような極端な結婚観を持つ者が現れてきたことが、このことを如実に物語っている。さらに東方型アスケーシスの基盤を形作っていた共修制の経済理念が、私的所有権を強調し、経済的搾取の悪癖が横行する世俗化したローマ社会にあってはもはや通用しないものとなっていた点に、ペラギウス派をはじめとする東方型アスケーシス修道者たちが異端として排斥されていった原因があることを明らかにした。 2)の教皇権確立の過程については、その外的要因と内的要因という二方向から対象にアプローチし、外的要因については、1.地方自主独立権との対立、2.報告義務と裁判官任命権、3.教皇権確立の立役者、4.北アフリカ司教団との緊張関係、5.東方側の反発、という5項目において検証した。内的要因としては、西方教会の構造転換、なかでも贖罪をより多くの人々に施すための、いわば罪の赦しの制度化が行なわれていった点を、ペラギウス派、ならびにアンブロシアステルらの文書から明らかにした。
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