新たな成果の概要は以下の通り。 I.西方ローマにおける異端排斥と教会制度確立過程の解明に際して、その両者が関わる重要な課題が、東方型修道制のローマ市への移植がなぜ挫折したのか、という問題である。 1.東方型修道制が西方ローマで受け入れられなかったことには、ローマにおいてキリスト教化が進む中でも、結婚と多産を奨励する伝統的な結婚観が未だ根強く存在したという社会的背景があった。修道生活を志す未亡人でさえ、既に、跡継ぎとなる子孫を残していることが前提であった。 2.修道生活を志すローマ貴族の未亡人の中には、聖職者や修道士のパトロンとして、経済的な影響力を行使する者が現われた。男性聖職者による制度化を推し進める教会や、これを後押しする皇帝にとって、未亡人修道女による影響力は看過できない脅威と感じられ、ついに彼女らが聖職者と接触することを禁ずる勅令さえ出された。 3.さらに、伝統的に私的所有を容認する西方の土壌において、私的所有権を認めないとする東方型修道制は、教会や帝国当局のみならず広く一般の支持を得ることができなかった。 II.西方ローマにおける教会の世俗化と制度化によって、異端排斥の基本的な枠組みが整えられていく一方、東方側と西方側の異端排斥を巡る緊密な連携の存したことが明らかとなった。 1.これまで東方側の異端ネストリオス派と西方の異端ペラギウス派の両者の排斥に際して、如何なる関係が存したのかについては、全く解明されていなかった。前世期末に発見され、1981年に公刊された、アウグスティヌス最晩年の書簡群Divjak Lettersの中でも、その第4書簡から、アウグスティヌスが、東方のアレキサンドレイア司教キュリロスと密接な関わりのあったことが判明した。 2.これにより、キュリロスは、東方側でネストリオス派を排斥した際、アウグスティヌスを通してペラギウス派の西方における異端性の指摘を感知し、ネストリオス派の元に逃れたペラギウス派をも同時に排斥した、という東西両異端排斥の経緯が明らかとなった。
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