3世紀半ば、ローマ司教団と北アフリカ司教団とはアリウス派排斥のために共同戦線を張る必要から共に教皇の至上権を認めた。5世紀半ばに、教皇権は東西両教会間の教皇の権威を巡る対立によって更に強化された。 このような外的要因に加えて、西方教会内部の構造転換も、いわば内的要因として、教皇至上権の確立に寄与した。東方に比べて、西方では、いまだ上流階層において異教徒や彼らの伝統的な文化が強い影響力を有していた。したがって、西方教会は、単にローマ化すること、すなわち世俗化することを余儀なくされるのみならず、同時に制度化、すなわち教皇権に基づく堅固な組織を築き上げる必要に迫られたのである。そのような局面において、アウグスティヌスの原罪論は、西方教会の世俗化を促進し、また、罪の赦しのより強固な権威を要請する教会を確立していくためにきわめて都合の良い神学的枠組みを提供することができたのであった。結局、異端を排斥することができ、また罪を赦すことができる至上の権威としての教皇権が、5世紀のゲラシウス教皇文書において明確に宣言されるに至った。同時に同じくこの文書において、こと宗教的な事柄については、教皇権の方が皇帝の権利に勝るものと宣言されたのである。これは、以上の外的要因と内的要因の双方が機能して教皇の至上権が確立されたことを象徴的に示すものに他ならない。 以上の成果に引き続き、当初の予定では、西方側と東方側の異端排斥を巡る緊密な連携について解明を行う予定であった。しかしながら、アレキサンドレイアと北アフリカとの間に、異端排斥に関わる連携のあったことは判明したものの、更にこれにペラギウス派がどこまで関与したかについては史料の収集と判読の作業が間に合わなかった。キュリロスとアウグスティヌスという東西のリンケージが、ネストリオス派とペラギウス派というリンケージを異端として排斥したことは推察できるが、これをテーゼとして結論付けるには、更にアウグスティヌス最晩年の説教や書簡郡を初めとする精緻な検証により十分な証拠が挙げられねばならない。
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