日中両語の過去の方言の考察とその対照、および音訳漢字の分析を通して、日本語史資料としての中国資料の再検討を行なった。主たる資料は、清代の日本研究書『吾妻鏡補』(翁広平著、嘉慶十九・1814年序)に引かれた佚書「海外奇談」および「東洋客遊略」であり、肥前方言語形を含む多数の日本語を音訳漢字で記している。 現在見ることのできる最良の写本においても多数の誤写があり、また、方言の問題もあって、未解読の部分を多く残している。本研究では、中国原音の方言音系の究明と、諸資料のつきあわせによる解読の進展、さらに音訳漢字の分析を通して近世期肥前方言の音声・音韻・語彙の様相を究明した。 初年度は、国内に存する写本の実見と複写類の収集をはかり、ついで一項目毎のテキストデータベース化を完成させて、音訳漢字と日本語音韻の対応関係を考察した。次年度は、本資料が伝える近世肥前方言の語彙、文法現象、また音訳漢字の分析から再構される音声を、現代の肥前方言とつきあわせることによって、理論的な矛盾の有無等を検し、解読の精度を高めるための作業を行なった。最終年度は、長崎市を中心とする肥前方言区域のフィールドワークを行ない、研究の進展を図るとともに、全体のまとめを行なった。 本研究は、筆者が先に行なった、日本書紀に収録された古代歌謡の万葉仮名(音仮名)表記を分析し、仮名の中国原音の声調と、平安時代中央語のアクセントとの相関性を指摘し、あわせて奈良時代中央語アクセントヘのアプローチを試みた研究に連続するものであり、万葉仮名文献を含む広義の中国資料(音訳漢字資料)による日本語音韻史・表記史の研究の一環である。今後は、特に超分節的要素(韻律論的要素)を中心に、一般音声学的な観点を重視しつつ音韻体系と音価の様相を総合的に詰めていく予定である。
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