近代文学者の(異世界体験)と(身体感覚)を分析する場合、(異郷)に踏み込んだときに文学者がどういう言語体験をしたか、ということが重要である。それを端的にいうならば、彼等が残した膨大な言葉や言説が、単なるコンスタティヴ、つまり事実確認的発言に終っているか、あるいはパフォーマティヴ、つまり行為遂行的発言にまで踏み込んでいるか、という問題に帰着する。両者の線引きは難しいが、私の研究テーマにおいて問われなければならないのは、一貫して後者を中心としたこの問題に関してである。パフォーマティヴな認識は、考察対象である紀行文まで含めた文学作品が、帝国主義や植民地主義によって覆われていた時代に生産されているために、危さを伴ったものではあるけれども、そこには他者とのコミュニケーションとしての言語が機能していた。それは前者の事実確認的発言よりはるかに複雑で微妙である。事実確認的言説は、あたりさわりのない傍観者的なものの観方に終始していて、先験的な(他者)のイメージから出られない。一方、行為遂行的発言は、語り手のアイデンティティーの根拠に左右されがちである。文学者のパフォーマティヴはナショナル・アイデンティティーとの関連においてどのように機能し、どのような痕跡を残していったか、という点に問題が絞られていった。 (異世界)に足をおろした文学作品、(異郷)を舞台にした文学作品の分析する場合、文化表象に支配的な側と被支配的な側という二分法は必ずしも有効であるとはいえない面がある。逆に考えれば、予断的な(他者)のイメージが先行し、コミュニケーション不全になりがちな(異世界体験)は今日のわれわれに多くのことを示唆している点では変わらない。中国・朝鮮(韓国)を舞台にした長・短篇小説や紀行文の分析を通して、文学史から取り落とされたり、一見文学的な価値の低いテクストから学ぶべきことのほうが多いという結論を得た。 近代文学者の(異世界)=(異郷)体験と身体感覚についての研究は、中国・朝鮮(韓国)のみならず、アジア全体の地域について考察されなければならない。特に知識人達の(国民的語り(national narrative))あるいはそれを伴った身振りに対して絶えずチェックを入れる必要がある。本研究では、日本人がアジアに対して歴史的に未曾有の体験をしたことが、日本人の文化的同一性と密接に関わっており、文学者の(異世界体験)と(身体感覚)が表象したものもまた、その問題とは決して不可分ではなかったことがさまざまな角度から検証された。
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