本年度はまず、研究実施計画に記述した基礎的調査に着手し、(1)ゾラとその周辺の自然主義作家に関する研究文献の書誌一覧の作成、(2)『ルゴン=マカール叢書』の諸作品の再読と分析、問題系の抽出、(3)フランス近代社会に関する歴史学、精神医学、美術史学などの文献調査、の3点に関して、かなりの成果を得た。これらの基礎的調査は、今後も継続する予定である。 本年度はまた、『ルゴン=マカール叢書』第8巻の小説『愛の一ページ』を、同時代に興隆した印象派絵画との関連において考察し、とりわけゾラがこの小説の構想において、印象派の女性画家ベルト・モリゾの作品から大きな示唆を受けていることを明らかにした。すなわち小説の重要なライトモティーフであるトロカデロの高台からのパリの眺望、母と娘のいる閉ざされた空間、思春期の少女の主題、鏡に象徴されるリフレクティヴな構造などの点である。このゾラの小説のヒロインは、保守的なブルジョワ階層の夫人であるが、自身、高級官僚の娘であるモリゾが描いたのも、私的な領域に隔離された女性たちの世界であった。19世紀のブルジョワ社会は、女性を「きちんとした淑女」といわゆる「街の女」の二極に分けていたが、美術批評家のグリゼルダ・ポロックが「女性性の空間とモダニティ」のなかで説得的に示したように、芸術上のモダニズムが称揚したのは主として金銭と商品の交換が支配する近代都市空間であった。ゾラの場合、ベルト・モリゾの世界に想を得た『愛の一ページ』は、マネやドガの作品と共通するモティーフを多く持つ『居酒屋』や『ナナ』と対照的な性格を与えられている。今後は19世紀パリの都市空間を、階級とジェンダーの視点からさらに緻密に考察していく必要があるが、その際に同時代の絵画とその研究からは、多くの示唆が得られることが予想される。
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