19世紀オーストリア小説の分析のよって明らかになるのは、シールズフィールド、エーブナー=エッシェンバッハのような未知のすぐれた作家をはじめとして、繰り返し父の問題が描かれる点である。これは権力と、言語表現をめぐる問題であり、それは20世紀の作家にも受け継がれ、とりわけムージルやリルケにおいて父の死の描写によって顕在的なものとなっている。 ムージルはその出発点において、マッハ、フッサール、ヴァイニンガー、フロイトらの活動と関連する問題意識を抱いていた。彼は、基本的にマッハに親近感をもちながら、世界が感覚印象に解体するのを拒む点で、フッサールに近く、またヴァイニンガーと同様の問題意識をもち、フロイトのテクストと同じ構造をもつテクストを産出した。 『特性のない男』では、「父の言説」と「愛の言説」の対立によって、言語の根源に降りていくようなあらたな言説が希求された。それは大きな物語とは対立する物語として構想された物語であり、現前する意味を否定し、つねに第三者の介入をテキストに書き込み、テキストの媒介性、時間的な遅れを前景化するテクストとして構成されている。 ムージルの20世紀ドイツ語散文の作家としての位置は、彼と同じ時期にマッハ批判を行ったレーニンと、さらに小説の問題を実践の問題に発展させたルカーチとの対比によっていっそう明確になる。ルカーチの場合、小説において失われた全体性は、『歴史と階級意識』において階級としてのプロレタリアートにおいて復活する。このプロレタリアートは歴史の主体であるが、主体性とはフロイトからラカンにいたる精神分析で大きく揺るがされた概念であり、ムージルの立場は、むしろ精神分析に近く、そのテキストをマルクス主義と精神分析の間に位置するものとして評価することができる。
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