昨年度までに蒐集した聖師父文献を整理することを通して、1840年代にモスクワのゴーチェ出版局からかなりまとまった聖師父の翻訳シリーズが出版されていたことを知り、それらが専らロシアにおける正教の教義研究の一翼をになうセルギイ大修道院(所謂モスクワ神学大学)の研究成果となっていることを突きとめた。この流れとは別に、19世紀に復活した長老制のもとでやはり聖師父の出版活動に従事していたのが我々の研究テーマであるオプチナ修道院とその周辺の人々であった。初期スラヴ派の論客として首都の論壇で指導的役割を演ずる傍ら(33年には自己の雑誌『ヨーロッパ人』の停刊処分を受けたものの)、その後、正教徒の魂に益するこれら聖師父文献の計り知れぬ価値に注目し、オプチナの長老マカーリイの霊の子となって、これらの出版活動の中心的存在となったのがイワン・キレエフスキーである。彼はオプチナの長老マカーリイや自分の妻のナターリアの霊の父であった高位聖職者等との交流を通して、18世紀にパイーシイ・ヴェリチコフスキーによってアトスからロシアにもたらされ、その後弟子たちの手によってオプチナに持ち込まれた厖大な聖師父文献の写本(ギリシャ語やスラヴ語のものはロシア語に翻訳する必要があった)をロシアで出版することを企画、実践する。今年度の主たる研究上の成果は、ある意味でロシア人インテリに典型的な転向をとげたキレエフスキーの生涯の様々なエピソードや伝記的事実を、専らオプチナ修道院との関係に絞ってモスクワの古文書館やオプチナの記録に基づいて明らかにし、彼自身の思想展開(西欧派-スラヴ派-正教研究者)を彼の著作集をもとにある程度描き出すことができたことである(「神戸外大論叢第52巻、第5-6号を参照のこと)。この過程において、ロシアの研究者と意見交換を行った他、小生自身のオプチナとの関係も深まったことを特記しておきたい。
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