ローマ最大の哲学者キケローの偉大さは、ローマの哲学を樹立したことにあるが、しかしそれにつきるものではない。そもそも哲学はギリシア人の生きた世界の表現であり、ギリシア精神の所要である。キケローはローマ人のなかで最も深くかつ広くギリシア哲学そしてヘレニズム期の四大学派(新アカデメイア、ストア、エピクロス、ペリパトス)を学び、各々の方向と特色と更に限界を洞察・剔快した。しかもキケローは哲学を真に人間性(ヒューマニズム)に貫かれた豊かなものに改築することすら果たした。ここに彼の弁論(雄弁)を哲学に接合する努力が傾注された。ギリシアの古典哲学説中ソクラテスとプラトンで哲学的真の深淵さから分断された弁論(美しくことばの多彩さで説得すること)を哲学の不可欠の伴侶としたこと、そして弁論術もローマ的実践経験、政治家の人民懐柔、法廷の自己主張の域を脱して高邁な哲学と結合すべきこと、こういう従来にない哲学と弁論のいわば聖婚が、ローマの執政官をも諦めたキケローによって達成された。本年度は弁論(修辞)が哲学を人間の豊かな深い形成にするために、哲学に積極的に参入すべしとしたキケローの決意と遂行をじっくり辿った。拙稿「キケローにおける哲学と弁論(修辞)」と「キケローのソクラテス観、プラトン観を媒介にして」は、この追考を形にした成果である。キケローにとって弁論術関係の考察はつねに同時に哲学的省察である。『弁論家について』を中点とする『弁論家』、『ブルートゥス』の三大弁論術集を私は丹念に原典と一流の注釈書並びに研究書を離さずに築いた。キケローの偉大さの究極点と目すべきものは、ことばを磨くことが人間の自己形成の根幹であるということであろう。哲学は確かに人間が自己を超え、世界全体や神そして文化を経験的手狭さを脱して考え詰める業である。しかし同時に我々は、ことば的表現に身を託して、身を挺してここへ向かうべきである。
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