本年度の研究実績は、次の2点である。その第1は、ナチスの安楽死法草案の作成に、1920年に出版された刑法学者カール・ビンディングと精神科医アルフレート・ホッへ共著の『生きるに値しない生命の抹殺の許容』の内容が、きわめて重要な役割を果たしたという事実の発見である。従来、この書物については、研究者の間で話題になってはいたが、ナチス安楽死法草案との関係では曖昧な点が多かった。しかしこの書物の解読、およびその後の受容態様の検討を通じて、この書物のナチスへの歴史的・思想史的影響が鮮明となったのである。この『生きるに値しない生命の抹殺の許容』については、近く翻訳出版の予定である。 第2は、カール・シュミットを中心とするナチス法学者のヴァイマール期、ナチズム期に書かれた諸論文の解読を通じて、ナチス法学者および知識人のユダヤ人観の一端を明らかにしたことである。特に(1)シュミットに見られるような「同質性」「同種性」「種の同一性」という概念の巧みな使い分けが、ヴァイマール期およびナチズム期のユダヤ人抑圧の修辞的要素となったこと、(2)法(Recht)と法律(Gesetz)とを区別し、ユダヤ人の思考を法律実証主義の側に、ナチズムの思考を民族法の側に置くことによって、ナチズム期の法学の分野でも、ユダヤ人とドイツ人との対立が「人為的に」作り出されたこと。以上の思想史的経過を検証できたことは、大きな収穫であった。
|