中世から近世について、血讐・フェーデの諸現象を、犯罪史学の観点から考察した。フラウエンシュテットおよびシャルクの研究、未刊行の和解契約文書、北ドイツのハンザ諸都市における騎士と都市とのフェーデ、アメリカ人S.D.Whiteのフェーデ研究、が主要なてがかりとなった。研究の中心は、中世後期(14、15世紀)のドイツの諸都市の状況であったが、他に関係して、中世初期のフランスについても、考察した。その結果、ほぼ明らかになったことは、以下の通りである。 (1)中世後期の騎士社会と都市社会との社会的威信をめぐる相違・対立が、暴力・犯罪現象を引き起こす基底にあった。少なくとも基底にあるものの主要な一つと考えられる。騎士社会は富の浪費に威信をかけるといった、ポトラッチ式のarchaicな身分社会の伝統に固執しており、他方都市は、富・財貨の流通・形成に社会的威信をかけていた。両者にみられる、対立・相違は、さまざまの血讐・フェーデ事象の発生に多かれ少なかれ影響があったであろう。 (2)血讐・フェーデ事象の解決は、関係当事者の契約によっていた。事件は一般的に妥当する規範的法に基づいて紛争を処理・解決する、という思考方法が未だなかったせいである。契約締結には、当事者のみならず、友人親族、および一般の都市民が仲介人・保証人として活動しており、彼らの紛争調整的役割には目覚ましいものがあり、柔軟な解決が図られていたことにも注目しなければならない。 (3)血讐・フェーデや、そこからくる暴力・紛争を契約によって処理し、解決を図るという思考は、しかし、なにも中世後期に始まったものではなく、すでに十一世紀の時代において証明される(一例に、中部フランス、トゥーレーヌのNoyers修道院領域について)。そこでは、紛争当事者(騎士身分の原告・被告)の友人親族が複雑に錯綜する状況のなかで、これをほぐす役割をもって、教会・修道院が仲介者となっていた。と同時に、聖職者が地域の平和、もしくは公共性の形成に関わっていた。
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