ドイツ中世後期におけるフェーデの現象について、本年度は、(1)有力な商業都市であるシュトラースブルク、ケルン、リューベックを中心に、騎士と都市との間におけるフェーデを取り上げた。さらに(2)フェーデ現象ときわめて密接な関係のある報復的差押えについて、日本中世においても類似の現象が知られることがわかり、この日本中世の事例と、ドイツ都市における事例とを比較し、それぞれの特有性を明らかにした。 まず、シュトラースブルク、ケルン、リューベックにおける騎士と都市とのフェーデであるが、これら3つの都市に共通する現象と、それぞれに特有の現象とが確かめられた。とくに、共通する現象としては、騎士は何らかの権利主張を繰り出して自己のフェーデ行為を正当化しようとしていた。ただ、この権利主張が何であるのかは、史料的にはなかなか見えにくい。しかし、それが騎士世界における窮乏化現象と無関係ではない。富を蓄積してきた都市と、権力の集中に走る領邦君主との間にはさまって、騎士世界は存続の危機にあった。このことが、富の配分を求めてのフェーデに繋がっていった。3つの都市それぞれに特有な現象としては、傭兵、封建法、騎士と都市との同盟などが挙げられる。 次に、報復的差押えをめぐる比較史的考察であるが、中世日本と中世シュトラースブルクとを比較して、いずれについても、報復的差押えの禁止が次第に声高になっていったことが言える。シュトラースブルクでは、裁判の拒絶があったときにはじめて報復的差押えが許された。このことは、ヨーロッパ中世の場合、12世紀以降に展開する、裁判システムの維持に重きがおかれていたことと、符号している。日本では、原則としての、裁判システムの維持は必ずしも明瞭には見えてこないが、天下統一の進展に伴うフェーデ権の独占化という政治現象と共に(楽市・楽座)、報復的差押えが禁令の対象になる。
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