本研究では1950年代前半に山口県で起こった二つの殺人事件について、その捜査から裁判の過程でどのようにして事実誤認が生じてしまうのかを、自白に焦点をあてて、個々に実証的な研究を行った。 まず捜査の過程においては、取調官の姿勢が有罪を前提にした謝罪追及型のものになりがちである点が問題となる。仁保事件の取調べ録音テープはこの謝罪追及型の危険性を如実に示すもので、被疑者はこの取調べの下で、自分がやっていないことは分かっていながら自白せざるをえない心理になっていく。それは強制-迎合型自白の典型である。またそのなかで「自分が犯人になったつもりで考える」という倒錯した心理状況が作り出されていくことが、文字どおりのかたちで記録化されている点も注目される。そこで生み出される自白は、言わば取調官と被疑者との合作である。八海事件では強引な拷問的な取調べによって虚偽自白が取られているが、そこでも自白が両者の合作であることは、真犯人の自白の変遷と他の被疑者たちの自白が互いに相互誘導しあっている事実から明らかである。 ところが裁判でこの虚偽自白の過程がなかなか暴かれない。裁判官はその心証形成のなかで、自白のもつ危険性を十分に警戒していないことが少なくない。自白だけでは有罪判決を下せないとの法的な枷があるにもかかわらず、自白はしばしば裁判官の心証を大きく動かしてしまう。二つの事件の判決はいずれもこのことを示している。とりわけ八海事件第一審裁判長の裁判官が著した二冊の書物は、その心証形成の過程に「証拠なき確信」が深く入り込んでいた。 これを予備的な研究として、さらに詳細な本格的な研究によって、事実認定のなかに心理学的な分析の視点を定着させることが望まれる。
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