浜口内閣期の対英米関係は、ロンドン海軍条約の締結などによって、これまでいわれてきた以上に安定しており、また対中国関係もかなり良好なものとなっていたことが判明した。中国国民政府は、不平等条約の撤廃など国権回復を追求しようとしていたが、その対日政策は、日本の軍事的介入を招かないよう、きわめて慎重であった。したがって、両国政府間の関係は、満蒙問題や治外法権問題など種々の対立要因をはらみながらも、ある種の均衡状態にあったといえる。永田鉄山は、はやくから第一次大戦後の総力戦段階に対応しうる体制を整える必要があると考えていたが、昭和恐慌までは、その体制整備が政党内閣のもとでも可能だと見ていたようである。しかし昭和恐慌を契機に、国家改造の必要を痛感するようになり、政党政治否定へと向かっていくことが判明した。しかし、なぜ永田が政党政治に否定的になっていくのか、そのプロセスはまだ判然とせず、なお究明を続けていく必要がある。これまで、国家改造の考え方のルートは、北一輝や大川周明など、北の『国家改造法案』を起点とするものと、橋本欣五郎のトルコなどでのクーデター革命の経験がいわれてきたが、おそらくなお別の系統があったものと考えられる。
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