4年間の研究において、まず、昭和恐慌期における浜口雄幸の国家構想とその政治指導を、当時の国際関係の展開、とりわけ中国・アメリカとの関係の展開や、内政・外交全般、さらには若槻礼次郎や幣原喜重郎、犬養毅、森格など周辺の政治家の動向とともに検討した。 この時期、最も重要な問題は、金解禁後の恐慌下での経済政策、ロンドン海軍軍縮条約、および対中国政策であった。恐慌について浜口は、なお一般的な循環型のものだとみており、一定の不況対策は行いながらも、金本位制と緊縮財政を維持しようとしていた。ロンドン海軍軍縮条約問題は、その後の国論分裂の端緒となったとの見解がしばしばみられるが、実際には、海軍の軍縮反対派は海軍中枢から駆逐され、枢密院も事実上その政治的発言力を失うかたちとなり、議会政党による国政のコントロールが強化された面が強い。 浜口内閣は、恐慌期においても、対米英協調と中国内政不干渉を外交政策の基本としており、浜口自身も、英米のみならず、中国国民政府とも協調が可能だとみていた。アメリカ・フーバー民主党政権、イギリス・マクドナルド労働党政権も、浜口内閣には基本的には協調姿勢をとっており、ロンドン海軍軍縮会議におけるアメリカの対応も、浜口内閣にたいして好意的なものであった。もちろん米英とも国内には様々な議論があり、日本にたいして強硬な主張も存在したが、大勢は政府の方向に同調していた。当時ほぼ中国全土を掌握していた国民政府も、公式には「革命外交」をかかげながらも、日本の軍事的介入を警戒し、その対日政策は実際にはきわめて慎重なもので、浜口内閣に好意的であった。 満州事変前後からの国論の分裂といえるような状態は、軍縮条約問題とは別に陸軍部内の軋礫、そこでの永田鉄山を中心とする超国家主義グループの台頭から本格化するものである。永田の国家構想と政治行動の究明は、この過程を明らかにするうえで、有意義なものとなった。永田の構想は、総力戦段階認識から、次の大戦に備えて、国家総動員態勢構築への資源確保の観点から、満蒙のみならず北支までも日本のコントール下に置こうとするものであった。そしてそのための国家改造を考えていた。恐慌の深刻化のなかで、永田はその構想の実現に着手する。
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