今年度は、1990年代のタイの民主化を理解する鍵となる1992年の「暴虐の5月」事件について調べた。この事件は、通説では、民主的な都市中間層が自発的に反政府集会に結集して政権を打倒した民主化運動であると理解されている。しかしながら、反政府集会で指導的な役割を果たしたチャムローンの言動に焦点を絞りながら、当時の新聞や週刊誌などを丹念に読み込んでみると次のようなことが分かってきた。 集会は都市中間層による自発的な運動ではなく、チャムローンが試みた様々な形の動員努力によってやっと規模が膨らんだ。チャムローンが決起したのは政党や軍隊の権力関係に鑑みて当時の政権が1980年代のプレーム政権と同様に長期化することが懸念されたからであった。彼が政権打倒という目的を達成するには、階層を問わずあらゆる人々を動員して集会の規模を大きくすることが不可欠であった。実際のところ、集会参加者はさまざまな階層にわたっており、決して都市中間層が主体であったわけではなかった。他方、事件後の9月に行われた総選挙では集会での役割が小さかった民主党が第一党となって政権を担当した。また、チャムローンは流血を招いた責任の一端があると批判され、総選挙ではふるわず、政界引退へと追い込まれていった。 現在、こうした成果を学術論文にまとめている最中である。 今後は、事件の主役が言説の上ではチャムローンから都市中間層へと交代させられたのはなぜか、そのことが90年代の地方分権化や憲法改正とどのように関連しているのかを解明してゆきたい。
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