本研究では、調査可能であった近世出土蒔絵の加飾部分の材質や生成混和物を分析して、基本的な蒔絵加飾部分の劣化のメカニズムを把握した。次に、この結果を踏まえて使用される確率の高い各種蒔絵材料と、地塗り漆や下絵漆の使用顔料との相互関連性を中心に据えた蒔絵塗膜面の手板試料(標準サンプル)を作成した。その結果、近世蒔絵漆器で多用される蒔絵粉材料は、金(Au)の他、銀(Ag)・スズ(Sn)・石黄(As2S3)さらにはこれらの混合材料の多種多様であり、とりわけ劣化の著しい出土蒔絵漆器の場合、金自体を使用した例は数%程度で極端に少なく、金でも銀含有量が高い。実際の出土資料の大半は漆のニス効果を生かした銀粉・スズ粉、石黄粉であった。年代別に蒔絵粉材料の使用比率を集計してみると、江戸時代前期〜中期は石黄粉、江戸時代中期〜後期は銀蒔絵粉、江戸時代後期〜幕末期はスズ蒔絵粉を用いた蒔絵漆器が多く、江戸時代における蒔絵技術の変遷が明確に理解された。この内、これまで研究例がほとんどない石黄粉について材料学的に調査した。その結果、江戸時代前期頃の石黄は海外交易で輸入された天然鉱物を、江戸時代後期以降は、江戸時代の本草本に記述された製法からなる亜砒酸と硫黄を合成して製造する人造石黄であることが確認された。出土蒔絵漆器の内、銀蒔絵粉およびスズ蒔絵粉資料の劣化状態を調査した結果、銀蒔絵粉の多くから塩化銀(AgCl)もしくは硫化銀(AgS)が検出された。そして紫外線劣化などで銀蒔絵加飾部分をコーティングしてある漆面がまず破壊され、むき出しになった銀金属が腐食されてイオン流出し、これと接触する包含土壌の鉄イオン等が固結して表面固化殻を形成する劣化現象が考えられた。一方、スズ蒔絵粉もしくは梨子地の場合、まず腐食によりスズ粉もしくは箔の体積比率が変化してコーティングしてある漆面を物理破壊させる劣化現象が確認された。
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